潮音禅師とは

生涯
潮音道海禅師(ちょうおんどうかいぜんじ)は、1628年に佐賀県で生まれ13歳で出家しました。
黄檗宗の宗祖である隠元隆琦禅師の弟子、木庵禅師(もくあんぜんじ)の三大弟子の一人です。

全国に二十数カ所の寺を開山し、弟子は63人いたと云います。
臨川寺もその一つであり、初めて住職となったのが臨川寺なのです。

また徳川幕府とも親交があり、五代将軍徳川綱吉(犬公方)が館林藩主の頃、潮音禅師に教えを請うていました。

68歳の時、隠元禅師の二十三回忌に出席のため群馬県の不動寺(当時の住まい)から京都にある本山の萬福寺へ赴き、その帰路に臨川寺で亡くなりました。
臨川寺の裏山で荼毘にふされた遺骨は、臨川寺と不動寺に分骨され、臨川寺にはお墓があります。

初めて住職になったのが臨川寺。
亡くなった場所も臨川寺。
臨川寺と潮音禅師とは深い縁で結ばれていると云えます。
潮音禅師 頂相(ちんそう)
開山堂に祀られている像です。

地域との関わり
現在の関市にある曽代用水の水利権をめぐって、当時の下有知村と小屋名村などの争議があった時には尾張藩の仲介を許さず、無事調停に成功しています。

翌々年には、当時の田原村にある小松寺近くを流れる津保川が洪水を起こし溺死する者が多いことを聞くと、渡し船を造らせ貧しい人々を「渡し子」として雇い、往来できるようにしました。
これによって、村人は危険を冒して川越をしなくてもすむようになり、その渡しを「潮音の渡し」と呼んだそうです。
現在の田富橋の辺りがその渡しがあったところと云われています。
潮音禅師のお墓
両脇の文字は潮音禅師の墨跡です。

左・・・「宗目耀乾坤」

右・・・「祖風振大千」

どちらも「黄檗宗が広く浸透し繁栄しますように」というような意味です。