本文へスキップ

萬亀山 臨川寺は黄檗宗(禅宗)のお寺です

TEL. 0575-28-4316(黒野)

〒501-3941 岐阜県関市小屋名957番地1

潮音禅師とは

生涯

 
潮音道海禅師は、1628年に佐賀県で生まれ13才で出家しました。
 
黄檗宗の宗祖である隠元鵆g禅師の弟子、木庵禅師の三大弟子の一人です。

全国に二十数ヶ所の寺を開山し、弟子は63人いたと云います。
臨川寺もその一つであり、初めて住職となったのが臨川寺なのです。

また、徳川幕府とも親交があり、五代将軍徳川綱吉(犬公方)が館林藩主の頃、潮音禅師に教えを請うていました。

68歳の時、隠元禅師の二十三回忌に出席のため、群馬県の不動寺(当時の住まい)から京都の本山萬福寺へ赴き、その帰路に臨川寺で亡くなりました。
臨川寺の裏山で荼毘にふされた遺骨は、臨川寺と不動寺に分骨され、臨川寺にはお墓があります。

初めて住職になったのが臨川寺
亡くなったところも臨川寺
臨川寺と潮音禅師と深い縁で結ばれていると云えます。

 
 

 

潮音禅師 頂相(ちんそう)

開山堂にある像です。

潮音禅師のお墓

両脇の文字は、潮音禅師の墨蹟です。
 左・・・「宗目耀乾坤」
 右・・・「祖風振大千」
どちらも、黄檗宗が広く浸透し繁栄しますようにというような意味のようです。

























 

地域との関わり

潮音禅師はかなり影響力のある禅僧だったため、地域とも深い関わりがありました。

現在の関市の曽代用水の水利権をめぐつて、下有知村と小屋名村などの争議があったときには、尾張藩の仲介を許さず、無事調停に成功しています。

翌々年には、田原村の小松寺近くを流れる津保川が洪水を起こし、溺死する者が多いことを聞くと、渡し船を造らせ貧しい人々を「渡し子」として雇い、往来できるようにしました。
これによって、村人は危険を冒して川越をしなくても済むようになり、その渡しを「潮音の渡し」と呼んだそうです。
現在の田富橋の辺りがその渡しがあったところと云われています。