「法印衆」の一員
池田図書政長は、飛騨藩主であった金森長近の直属の重臣で「法員衆」の一員でした。
金森家が飛騨と上有知(現在の岐阜県美濃市)の二家に分かれると、上有知の家老となり幼い金森長光(長近の子)にかわり政務を行っていました。
しかし、金森長光が幼くして亡くなり金森家がお家断絶になると上有知の領地が没収され、郡上攻めで功績を挙げた政長は徳川家康により武儀郡小屋名村と下有知村の一部の1000石を与えられ、直参旗本(将軍に拝謁できる)になりました。
池田家
「寛政重修諸家譜巻第八百三十三」によると、もとは大塚姓であったようです。政長の時に外家(母方の親族)の池田姓に改めたようです。
祖父は三河守の大塚秀元で、出羽の秋田城において討ち死にしています。
政長については下記のとおりの記載があります。
「図書 母は池田平兵衛が女。
金森法印素元に仕ふ。慶長十七年めされて東照宮に仕へたてまつり、美濃國武儀郡のうちにをいて采地千石をたま
ひ、十月晦日黒印を下さる。寛永三年御上洛のとき従ひたてまつり、八年正月二十四日仰を奉はりて美濃國堤普請
の奉行をつとむ。のち御使番となり、九年七月十三日死す。法名永光。浅草の白泉寺に葬る。後代々葬地とす。」
現在、浅草にあった白泉寺は巣鴨に移転していますが、池田家の墓や資料は洪水等で残されていません。
臨川寺にある池田家の墓は、政長の子「池田長得」とその妻「池田きよ(東京の松本弁天の開基)」、孫の「池田長強」のものです。
黒印状
「金鯱叢書創刊号」より
江戸屋敷
東京のお茶の水には「池田坂(別名:唐犬坂)」という坂があります。
元禄時代の江戸の地図には「池田市之丞(政長の子孫)」の名前が記載されており、そこで珍しい唐犬が飼われていたことから「唐犬坂」と呼ばれ、その後飼い主の名を取って「池田坂」となったようです。
ただ、政長の時代から旗本屋敷がそこにあったのかは定かではありません。
当時、旗本は江戸定住が義務づけられていたようです。
小屋名村の領主とはいえ、ここに住んでいたわけではなさそうです。